東大寺畳という言葉は、たためるもの、重ねるものという意味があり、古事記にも登場しています。神々が海を渡ったり入水する際に藁などで作ったものを重ねて使用したという内容で、まさに重ねるものであることが伺えます。また和歌にも小屋の中で使用する敷物として登場するため、古くから敷物の意味として使用されていたことが分かります。

畳の主な素材は、細い茎が束になったように湿地や浅い水の中に生えている「い草」という植物であり、圧縮して織り込むことでクッションのような弾力性のある敷物になります。畳は大変保湿性・断熱性に優れており、気候変動の激しい日本の風土に合う敷物の一種として徐々に普及してゆくこととなりますが、もともと高価なものであり、当初は貴族の富の象徴として扱われておりました。

現存する畳のもっとも古いものは、奈良時代に東大寺正倉院で聖武天皇が使用された畳であり、御床畳という台の上に莚のようなものを5~6枚ほど敷いて使用されました。そして平安時代になり、貴族の邸宅が寝殿造になると、来客をもてなすための座具や寝具として設置されるようになりましたが、枕草子などの記述によると、畳は持ち運び可能な折り畳み式であり、基本的に部屋の中心を取り囲むように一畳ずつ設置する置き畳でした。また、畳の他にも敷物、地敷、打敷などを板敷の上に敷いて使用します。

現代のように畳が部屋全体に敷き詰められるようになったのは、書院造が完成した鎌倉時代・室町時代になってからのことでした。書院造は、来客を迎えることが多い武家住宅の建築様式であり、畳を座具としてではなく建物の床材として使用した座敷があることが特徴的です。

このような総畳敷を行える貴族は当初はごく一部しかおりませんでしたが、次第に畳が貴族階級に普及し始めると、今度は畳縁の文様によって座る人の階級を規定するようになりました。このころから畳縁の柄に芸術的なデザインをし、オリジナル性を高めたようです。その規定については、1420年の「海人藻芥」によって記されています。何れにせよ、畳縁が単なる縁ではなくなったようです。